小樽を世界へ

おたる政寿司のこだわり

1. 北海道を食す

熱意から生まれた究極の流通ルート

おたる政寿司は自社経営の鮮魚店から、直に食材を仕入れることができる独自のルートを持っています。そのため東京の市場では滅多に出回らない、貴重な食材を提供することができます。
この流通ルートに加え、独自の流通ルートによって、朝採れの北海道食材を当日の夜には東京でお楽しみいただけます。当店ならではの新鮮で美味しい食材を、ぜひご堪能ください。

2.おたる寿司屋通り発祥の誇り

先代との最後の約束

かつてニシン漁で栄えた小樽ですが、
漁獲量は減少の一途をたどっていました。
そこで、初代正之助と二代目全博はニシンが
小樽に戻ってくるよう『魚に感謝する会を催そう』という
約束を交わしましたが、先代は会の開催を待たずに
他界してしまいました。
二代目は先代の遺志を継ぎ、近隣のすし屋さんを招いて
『魚供養感謝祭』を開催し、それに賛同してくれた
近隣のすし屋さんとの間に共存共栄の哲学が生まれました。
『小樽すし屋通り名店会』誕生の瞬間です。

3.4Sにこだわり続ける経営

期待に応え続けることが成長

当社は、お客様にとって最上級の「おいしい」を提供することを経営理念としています。
そして従業員が働きたいと思える環境づくりにも力を注いでおり、長期的に働ける職場を提供し、技術を身につけられる場を作り出しています。
さらに取引先のパートナー様に対しても、お互いが抱える困りごとにも真摯に向き合い、解決策を提供することで、パートナー様との信頼関係を築いています。
社会的な観点からも、当社は飲食業界に光を当て、社会に貢献することを目指しています。地域の食材を活かしたメニュー開発や、食品ロスの削減など、環境に配慮した取り組みにも力を入れています。
これらの理念を実践することで、お客様、従業員、取引先、そして社会全体の満足度向上に貢献し、より豊かな社会を実現することを目指しています。

おたる政寿司
創業80余年の歴史

小樽の地に店舗を構えて、85年になりました。
大きな節目を迎えることができましたのも、
皆様のご愛願と暖かい励ましがあったからこそです。

一同、心よりお礼申し上げます。

寿司の世界にも新しい波が押し寄せてまいりました。
そのような時代の流れの中で、85年を振り返りつつ、
21世紀の寿司の在り方を常に模索しています。

「おたるの味」を世界に発信したいという
私たちの思いをくみとって頂けますならば、
これに勝る幸せはありません。

1935年
日本一の寿司職人になる

中村正之助は第一次世界大戦が勃発した大正3年(1914年)、北海道の天塩に生まれた。
ここで、尋常小学校3年まで過ごした後、両親に連れられて戦前は
日本の領土だった樺太(サハリン)に渡る。

一家が住まいを構えたのは、漁港として知られた大泊市(コルサコフ)というところで、
当時は樺太庁が置かれていた。この地で両親は林業に従事していたが
正之助が小学校を卒業するのと合わせて小樽市に転居。
小学校を卒業した正之助は市内の「黒田理髪店」で働き始めたが、

5年後理髪店のご主人が亡くなったのを機に退職、稲穂町にあった自宅を改造し喫茶店を始める。

昭和10年、店を母と姉妹に任せ東京浅草の「特選亭」で寿司と天ぷらの店に住み込みを始める。
その頃「おれは日本一の寿司職人になる」という夢が生まれ、浅草の繁華街で修業。
昭和13年7月、喫茶店を改装し「おたる政寿司」を開店。
わが政寿司の創業元年にあたる。

1947年
屋台の営業許可1号

昭和19年、日米戦争の敗色が濃くなるにつれ、寿司屋を続けることが難しくなり暖簾を下ろす。
やがて昭和20年1月、正之助は見合いをして結婚。
空襲から逃れるため網走の北浜に疎開。
8月15日終戦をむかえ、古い時代と新しい時代のはざまで、31歳になっていた。

今度は「食うための、生きるための」戦いを始めなければならない。
生まれてまだ1歳の誕生日も迎えぬ長女を連れて、
親子3人で小樽に戻り、現在の政寿司本店がある妙見川の河畔で屋台を始める。

屋台にも経済警察の目が光っていたが、正之助は一度も摘発を受けることなく、
昭和22年正式な営業許可をもらう。
これは小樽市内における屋台の許可第一号だった。

1948年
再び「政寿司」の暖簾を提げる

昭和23年7月に長男全博(現会長)が誕生し、
「後継ぎができたからにはもう一度、本格寿司で勝負しよう」と
「おたる政寿司」本店がある花園1丁目1番地に再び暖簾を提げた。

店は木造2階立て、建坪12坪で商売を始め、大当たりする。
その半年後、店を増築し建坪30坪の規模に倍増。

1973年
二代目、政寿司入社

長男全博(政寿司現会長)が政寿司に入社した昭和48年は、
秋口から第一次オイルショックが日本を襲った。
小樽の花園繁華街も夜はすっかりさびれ、
店の上得意だった会社が倒産したりして、
お客さんも激減した。

そこにPCB(ポリ塩化ビフェニール)による
魚介類の汚染問題がクローズアップされ、寿司屋や魚屋から
ますます客足が遠のき、店の実績はいっきに悪化した。

そういう事が伏線としてあり、正之助の一番弟子が
政寿司を辞めたのは、翌昭和49年だった。

1977年
高級化と大衆化に二極分化

昭和52年頃、政寿司は小樽という港町ならではの
新鮮で豊富な魚介が売り物だったが、
メニューひとつあるわけでなし、お客さんも通の常連さんばかりで、
一見の客が入ってこようものなら、職人がにらみ返すような
雰囲気になっていた。これでは、どちらがお客かわからない。

これからの寿司屋は専門店の大衆化をはからなければならない、
メニューをきちんと掲げて、値段も表示していかなければ
取り残されると考え昭和54年7月1日、本店の店長に就任した
長男全博(現会長)はさっそく大衆路線を打ち出した。

1987年
創業者の永眠と魚供養感謝祭

晩年、正之助は糖尿病が悪化し足を手術。
車イスの生活を余儀なくされ、毎日のようにレジの前で仕事をするわけでもなく、
にこにこしながら車イスでお客さんを出迎えていた。

その頃、正之助は「お客さんやご先祖さまに感謝するだけでなく、
魚にも感謝しなければならない」と亡くなる少し前に話していた。
講演会がきっかけで大阪府堺市の漁師から聞いた話によると、
昭和50年代になって二百カイリ漁業水域、いわゆる二百カイリ問題が起きて漁業が規制され、
魚がほとんどとれなくなり、漁師が悩んでいた。

すると「陸の資源は掘ればいい。海の資源は感謝すればいい」と助言してくれた方がいた。
そこで、漁師は魚たちに感謝しようと「感謝塔」を建立し、毎日お参りするようになった。
すると1ヶ月後、自分達の船のまわりにマグロの大群が押し寄せてきた。それも2年連続で…。

その話を聞き長男全博(現会長)は
「ニシンに感謝したら、かつてのように小樽にもニシンが戻ってくるかもしれない」と考えた。
講演会を終え、小樽に戻ってきた長男全博(現会長)は正之助と話合いをした。
それを聞いたご住職も「そう言えば、海には魚籃観音さまという、
ビクを手に下げて大きな魚に乗っかっている“魚の社長”さんもおられますな。
年に1回魚籃観音さまをお祭りして感謝する会をやりましょうか」と賛成して下さった。

そして、「来年になったら感謝祭を催そう」という段取りで進めていたら、
12月10日突如、正之助が永眠。
故人との最後の約束を実現する為、昭和62年7月1日、
政寿司の近隣の寿司屋さんを招いて「魚供養感謝際」を催した。

1987年
おたる寿司屋通りの誕生

「魚供養感謝際」に参加された寿司屋さんたちがとても感動され、
「感謝祭は、われわれ寿司屋が商売する以前の問題としてやらなければならない」
「われわれの手で今後も続けていこうじゃないか」と話がまとまり、
その年の10月4日、「おたる寿司屋通り名店会」を発足。

おたる寿司屋通り名店会の行事としては、魚供養感謝祭を催すだけでなく、
「自分達の親父さん達が作り上げた小樽の寿司を全国に広めていこう」
ということになった。

1990年
第二の創業

創業者の正之助が亡くなって空席になった「社長」に正之助の妻泰子が就任したが、
昔から何かと相談相手になってくれているお客さんたちから
「二代目も40歳になるんだから社長にしなさいよ」と言われ、平成2年2月21日、長男全博(現会長)が社長となる。

1995年
本店新築と経営理念の構築

「おたる政寿司」は平成7年12月、五階建ての本店を新築。

バブル景気が崩壊して日本経済の右肩下がりが続く中の
大きな決断だったが政寿司の社員が百人を超したこともあり、
さらなる飛躍をはかる為にはどうしても必要だった。

おいしさづくり、人づくり、幸せづくり